第19話    釣は道楽の果て   平成15年8月11日 


最近では釣も大衆化して、更にスポーツの一つとして見られ盛んにやられるようになった。昔は釣をするものは白い目で見られ、道楽者のレッテルを貼られることもしばしばであった。

現在の釣は山に川にそして海に釣の出来るところなら何処にでも釣り人が満ち溢れている。しかし、なんと云っても釣をしない者から見ればただの遊びの一つとしての釣としか見てもらえないのが現実である。釣を趣味とする者だけが、勝手にそう思っているだけである。確かに、スポーツ的な釣も一部にはあるかも知れないが、しかし大半の釣は現実に趣味としての範囲を超えないものである。

釣をする者は、ただぼんやりと釣り糸を垂れている訳ではない。結構緊張して魚の当りを待っているのである。釣れなければ釣れないでなんで当りが来ないのか、当りが来て釣れれば自分の工夫が上手く行ったと喜び常に何か考えながら釣をしているのである。もちろん達人、名人の域に達すれば自然と一体化しただ無心に当りを待つだけであろうが、私みたいな凡人にはまだまだ其の境地には達する事が出来ない。

釣れなかった時「釣るのが目的でなく遊びに来たのだから、自然のきれいな空気を胸いっぱい吸って帰ればそれで十分だ」という人も居る。がしかし、自然を見る事が目的ではなく、現実は釣が目的であるから、釣れない自分にそう言い聞かせているだけなのである。

何気なく釣を始めいつの間にか釣にはまってしまう。魚を釣っていた本人が、いつの間に魚に釣られてしまって居る。趣味としての釣なら何時でも止められる筈であるが、いつの間にか道具を集めはじめ、なに釣用だとか云って竿を何本も買うようになったらもうお終りだ。

趣味が嵩じてしまうと道楽となる。自分では、やれスポーツだ、趣味の釣だとは云っても第三者から見れば其の大半は道楽者としか映らない。「飲む、打つ、買う」の三大道楽をきっぱりと止められた人でも釣だけはどうしても止められなかったという。

世間一般の人から見れば愚かに事=道楽としか見られてない事を本人はそう思わず「趣味」だとか、「スポーツ」だとか云っているに過ぎないのである。大体釣が「スポーツ」だなんて考えられない。マスコミ等の頭の良い人や釣具メーカーの人が考えた事である。フィッシングゲームと称し数mの大物カジキマグロを上げたとは云っても、操船する船長の腕、ルアーの用い方次第で魚がかかってきたのを唯格闘して上げているだけであるから自分の考えではスポーツとは云えない。力仕事の延長である。他人に釣らしてもらって魚を取り込むだけの釣(?)である。そんなのは釣ではない。魚釣りとは単純に遊び(遊興)であり、遊びが嵩ずれば道楽となるものが釣である。自分も楽しみ、他人に不愉快な気持ちを与えない釣が真の釣であると考える。